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Dron-paの日常と非日常
by ドロン・パ
「愛」そして「超える」ということ
17/04/03 10:38
「私(Subject)」という存在(=意味)は他者との差異によってのみ自己を確定し得る。それは「赤」という色の意味が「赤」しか存在しない世界では成立し得ないこと(赤の意味は他の色との差異=対比によって成立する)と理由を分かち合っている。すなわち、「私」の意味は「私ではないもの=他者」との関係性によって根底から規定されているのだと言えよう。更にヒト科生物の意識主体としての「私」の存在は、「私」を中心として構造化された世界内に事物(私でないもの)を配置した宇宙を構成している。「私」こそが宇宙を現象せしめる原点なのであり、このことは「私」の(例えば死による)意識の消失と同時に、私が構成した宇宙をも私の意識から同時に消失することから例証され得る。繰り返すなら「私」は、こうした「私」自身の世界内に過不足なく配置された他者との差異によって意味付けられているのだ。

この時、「「私」は「M」を愛している」(便宜上「私=男性」「M=女性」とする)という言説をこの「私」の存在上の現象論から分析すると奇妙な関係が浮かび上がってくる。明らかに「私」は「私」を中心とする世界の中心たる構成者であり、この中で「M」は「私」の意味作用を確保する他者として「私」の世界内に配置された要素の1つとして存在している。だが同時に「M」自身もヒト科生物の意識主体として、「M」自身を中心とする宇宙の構成者であり、その中では「私」はもはや中心たる資格を奪われ「M」の宇宙内に配置された1つの構成要素でしかない状態として措定されている(2010.02.25のメモ参照)。

ここで「愛する」という意識を「私」、或は「M」がそれぞれ他者が構成する別宇宙内の中心に自身の中心を重ね合わせる(憑依する)体験を通じることによって得られる悦びの感覚であると仮定しよう。平たく言えば、京都鴨川のほとりで夜景を眺めて愛情を確認し合っているカップルの場合、男或は女は自分の視点から見ている景色を他者の視点からをも追体験し、その体験の感覚が同じであるという仮定のもとに悦びを感じることで互いが「愛している」という感覚を得ているのだと考察可能だ。男女のセックスにおいても視点を重ねれば具体的な行為としての「入れる/入れられる」は「入れさせる/入れされられる」との局面を循環するが、そこに観察されるのは主体性の転位である。



この状態において、「私」や「M」がそれぞれ別個に構成する宇宙内においては、それぞれが相手の構成要素であることを拒否し、それぞれが他者の中心に自身を憑依させようとする闘争劇が繰り広げられているのだが、その結果表言語、もしくは性の交換によるコミュニケーションによって創出される間身体は「私」「M」がそれぞれ中心を保ちつつも同時に互いの宇宙内の構成要素となり得る状態、すなわち2つの焦点を持つ楕円的世界を構成しているのではないかと考えられる。

ここから帰結できることは何か?「私」と「M」が別個に構成している宇宙は同一ではあり得ない。「私」と「M」が同じ金閣寺を見ていたとしても、それぞれが意識化する金閣寺のイメージはそれぞれの歴史によって異なるはずだ。ましてや社会存在としての男女は常に、既に権力を被ったgenderであり、生得的、或は社会的要因によって視点も異なり結像する世界観も異なるのが普通だ。ここでgenderの局面のみに焦点を絞り、2人が楕円的世界において同一宇宙を構成するときを考察すると、その本質がtrans gender的様相に接続され得ることがすぐさま理解できる。何故ならばそれぞれの視点はfeminityとmasculinityの間を循環し、その「どちらでもあって、同時にどちらでもない」驚喜(狂気)の状態となるからである。

しかしながら現実場面においては、前述の闘争劇はtrans genderに帰結することはなく、概ねmasculinityを中心とする側にfeminityを回収、配置しようとする運動が近代以降の社会には観察されている。このことは私有財産制を基盤とする資本主義の発達と無縁ではない。何故なら私有財産、及び財産継承においては人口産出母体、また消費母体としての「家族」という形態のみならず、「血縁」が非常に大きな役割を果たしてきたからである。財産継承者と労働者、消費者を産出するのは女性であり、また資本主義の初期発達段階においては避妊技術も高くはなかったので、女性のsexualiteを管理統括することは私有財産制をシステム化するためには是非とも必要であったと考えられる。そのため、あたかも男性が自己を中心とする宇宙内に女性を配置するが如く、現実場面においては女性は「イエ」に囲い込まれそこから外へ出ることは禁止されてきたのだと考察可能だ。

今一度楕円世界に戻ろう。この楕円の構造は2つの全く異質な円が合わさり同一平面を構成したものだ。ここで「異質」なるものを「同質化」しようとする運動は意味をなさない。同質化すればそれは他者たる他方の焦点を抹殺することであり、円化することに他ならないからだ。他者の存在との関係性によってのみ「自己」としての主体が構成されるとは前に述べた通りである。肝要なことは、まず互いが「異質」であるということ、そして互いの異質性を保持しつつ、それをtransすなわち「越える」ことではないだろうか?



 




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