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Dron-paの日常と非日常
by ドロン・パ
いかにして非理性を解放するか
17/03/23 08:23
人類にとっての最大の出来事は神に背き、禁断の木の実を食することで「善悪」を知ったことであるということには疑う余地はない。ここで改めて「善悪を知る」ことの意味を吟味しておく必要がある。言うまでもなくこの意識作用は何らかのスタンダードに照らして、ある事が即しているか否かを弁別するという、極めて高度な情報処理によって可能となるが、これには何よりも増して基礎となる情報の獲得が不可欠である。そして明らかなことは、この情報とは言語を媒介としてしか認知し得ないという事実である。

現実のヒトの進化の場面に即して考えれば、我々は脳の肥大化によって言語を獲得し、こうした情報処理が可能になったと考察可能である。そしてこの言語獲得は、ヒトを極めて自然界からは逸脱、解放された、特殊な生物として成立させる契機となっている。言うなればヒトのコトバは動物のそれと異なり、ヒトの動物としての身体図式と精神図式を乖離させる効果を持っているのである。

その一例はヒトの求心化作用と遠心化作用であろう。コトバによる意識作用によって自己の存在を言語的に確証するという人の特質を最初に定式化したのは、Descartesのcogito, ergo sumである。だがこのコギト命題における心身二元論において明らかなことは、身体と精神が常に非対称的に配置されているということである。

「我思う、故に我あり」とするこの第一原理においては、コトバによる意識作用が己のraison d*etreとして了解されているが、内的意識に結実している己に対する表象が、それ自体を現象させている母体たる「我の存在」の原理的証明となっているのである。あくまでも「我がある」故に「我が思う」のではない。「我」はア・プリオリに存在するのではなく、「我」という言語作用によって後発的に追認されるものでしかあり得ないのである。

ここではあたかもcogitoがsignifiantとして、sumたるsignifieと直結しているかのように現象している。言語の世界においてはsignifiantとsignifieが極めて恣意的な繋がりによって成立していることは自明の理であるが、cogitoという精神作用が指し示す実在としてのsumは「林檎」というコトバが物理体としての赤い果実を指し示しつつも、それ自体と同一ではないということと同一軌跡を描いているように思える。すなわちcogito, ergo sumによって確証される「存在」自体は、あくまで意識言語によって理性の世界に現象させられたものでしかあり得ず、それが「我の存在」総てを射程に収めたそのもの自体であるとは言い難いのである。

むしろcogitoは言語によって存在化させられない、と言うよりは反作用的に存在化することを拒む実在を産出してしまう可能性を秘めているのである。つまり、我々の存在の内奥には言語化を拒む、そして拒むが故にぬえの如く得体の知れないキマイラが、ヴォルデモートが、鬼六が反理性としての我々の闇奥に蠢いているのである。

我々は言語の獲得と同時に「理性」をも獲得したが、このことは翻って我々を「理性」と「非理性」との間で引き裂かれた存在、すなわち「罪」を背負った存在へと変貌させてしまった。

しかしながら我々には一つの可能性も与えられていることには留意する必要がある。John SteinbeckはEast of Edenの中で中国人Leeに“sin”に対する欽定訳における“thou shalt rule over him.”をヘブライ語の“timshel”に遡って、それは“thou mayest rule over sin.”であると指摘している。

すなわち、神が我々に与えたのは命令ではなく、助動詞mayが示唆する許可なのであり、そのことは我々にはsinを克服する可能性が内在していることを表明しているのである。我々は「理性」と「非理性」との間で分裂しつつも、「理性」を目指すことが可能とされているのである。

だがこのことは同時に我々が「非理性」を抑圧しなければならないことに接続されている。「理性」による「非理性」の抑圧の度合いが上がれば、それだけ「非理性」の反発の度合いも上がることは予想可能だが、我々がこの「非理性」の反発をどのように現実界において解放しているかについては今後の考察が待たれる。



 




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