その一例はヒトの求心化作用と遠心化作用であろう。コトバによる意識作用によって自己の存在を言語的に確証するという人の特質を最初に定式化したのは、Descartesのcogito, ergo sumである。だがこのコギト命題における心身二元論において明らかなことは、身体と精神が常に非対称的に配置されているということである。
ここではあたかもcogitoがsignifiantとして、sumたるsignifieと直結しているかのように現象している。言語の世界においてはsignifiantとsignifieが極めて恣意的な繋がりによって成立していることは自明の理であるが、cogitoという精神作用が指し示す実在としてのsumは「林檎」というコトバが物理体としての赤い果実を指し示しつつも、それ自体と同一ではないということと同一軌跡を描いているように思える。すなわちcogito, ergo sumによって確証される「存在」自体は、あくまで意識言語によって理性の世界に現象させられたものでしかあり得ず、それが「我の存在」総てを射程に収めたそのもの自体であるとは言い難いのである。
しかしながら我々には一つの可能性も与えられていることには留意する必要がある。John SteinbeckはEast of Edenの中で中国人Leeに“sin”に対する欽定訳における“thou shalt rule over him.”をヘブライ語の“timshel”に遡って、それは“thou mayest rule over sin.”であると指摘している。