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Dron-paの日常と非日常
by ドロン・パ
反理性への回帰
16/10/03 10:27
我々高等生物がエデンを追われることになったのは禁断の木の実を食したことに端を発する。それまで我々は神によってプログラムされた生を十全に生きていたと聖書は物語る。この時の我々には、いわば本能によって生きる野生動物と同じく理性も反理性もない、一重の意識に制御された世界があったと想像してよい。

こうした初原的に無垢な人間に「知恵」をもたらした禁断の木の実は「善悪を知る木」であったとされている。このことは我々が進化の過程で脳を肥大化させ、本能のプログラムから逸脱してしまったという事実と符合する。この結果、現時点での我々の「肉」としての身体図式は、「意識」としての脳内図式と完全に乖離してしまっており、あたかも荒れ狂う大海で羅針盤を失った小舟と化してしまっている。

現実世界では、この彷徨える小舟に対して意識による肉体の支配が擬似的羅針盤としての役目を果たすことになる。後にDescartesの「心身二原論」として結実することになるこの原理の萌芽は、前述した我々の生物学的なフリーク性に起源を持つ。Descartesは決して肉体に対する意識の優位を説いてはいないが、アダムとイブが知恵の獲得により「羞恥」を覚え自らの裸体を木の葉で隠したごとく、我々はソシオ・ネットワークの中では、意識によって自らの肉体を制圧しようとする。

意識は命ずる、「肉体を隠蔽せよ」と。それにより隠された肉体はもはや初原的存在であることは許されず、虚ろな「罪」として抑圧されることになった。我々はエデンの東に追放されて以来、衣服で肉体を隠し、衣服を着るにふさわしくない気候のもとでは裸体に刺青をすることで、本来の肉体を隠してきた。それだけではない。我々は肉体の欲求すらも、意識によって否定することを選び取る。我々は、我々自身によって、我々自身が受肉することを拒否し、現実の肉体という「現実」そのものは架空の存在として自らを措定しているのだ。

しかして肉体は日常/非日常での弁別のもと、「穢」と「晴れ」の時空に分類され、日常世界では言語ディスコースによって「仮構」された存在へと追いやられ、そして非日常世界でしかその姿をさらけ出すことを許されなくなった。もっともその非日常世界の姿すらも、それは「穢」の反作用としての二項対立図式の中でしか成立し得ない、擬似的なものに過ぎないのではあるが。かつてNietzscheはKierkegaardの実存主義に由来する自己欺瞞性を核とするルサンチマンが人間の意識の根底を囲っていると看破した。だが実のところ、このルサンチマンは意識と、それによって抑圧された肉体との関係性の中にこそ巣くっていると考えるべきであろう。

肉体は常に意識に対する自らの脆弱さと意識自身に対する怨念を孕んでおり、時として肉体が意に反してその存在を現前させようとするのはこの肉体自身が持つルサンチマンのためである。聖書においても、信仰深きペテロですら睡魔に勝てずキリストの命じた祈りを遂行できなかったという記述がなされている。

すべてこうした肉体の自虐性は、我々自身の脳が肉体の圏外で発達したこと、「善悪を知る」ことに由来するが、それは同時に諸刃の剣であった。すなわち、「善悪」を獲得することで、我々は片方で肉体を抑圧しつつ、もう片方ではそれを解放するメカニズムも精神病理学的に構築したのである。

善悪に対する意識は、本来的に弁別され得ない一つの事象に対して、意識が二重化されることを導く。つまり肉体はそれが「禁断」であるが故に、我々に対して非常にアンビバレントな存在と化す。それは絶対者によって禁止されているが故に「禁忌」の対象であり、同時に禁止されているが故に「魅惑」の対象としても現象するのだ。通常空間におけるソシオ・ネットワーク内においては、我々は理性の範疇で性意識的な肉体を禁忌する。だが同時に我々は、この禁忌によって発生する肉体のルサンチマンを解放すべく、通常空間では性意識的に「反理性」的範疇にはいる事象でも、その反理性性を相殺してしまう異時空を創出している。

すなわち我々は、原自然的事象を恣意的に弁別して「理性/反理性」にカテゴライズし、一旦「反理性」と措定した事象を異時空で犯すことでルサンチマンを解放している。いわば罪なき事柄を「罪」と措定し、その罪を異時空で犯すことで快感を得ているのだ。

一般に創世記のカインとアベルの物語に出てくる「罪は汝を慕い求めるが、汝はそれを治めなくてはならない」と訳されるこの言葉の動詞にあたる部分は、原語のヘブライ語ではTimshel、すなわちmayと同義である。すなわち「治めなくてはならない」という命令ではなく、「治めてもよい」という許可である。このことは人間の意識の肉体に対する全面的な裁量を委ねたものであることの証左であろう。しかもヤーベの神は弟アベルを殺害したカインを罰っしていない上に、彼に加護を与えている。

結果として、我々には禁止された肉体を自らの意志で治めること、すなわち日常空間で抑圧された肉体を顕在化させる裁量を与えられている。我々の肉体に対して主権を握っているのは我々自身であり、我々はそれを謳歌してよい。しかも「善」なるものを志向するには、「悪」なるものに対する知識を備えていることが前提とされる。何故なら「善」なるものは「悪」なるものの対比概念としてしか成立し得ないからだ。意識の二重化に伴い、理性によって受肉を拒否した我々にとって、永遠に拒絶された受肉状態を擬似的に回復させるにはそれを反理性に回帰させなければならない。従って我々は、現実空間で「善=理性」を志向するには、「悪=反理性」なるものを異時空で経験する必要があるのではないか?



 




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