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Dron-paの日常と非日常
by ドロン・パ
大学改革
16/09/10 09:54
1時間は60分だ。これ常識。でも大学という、およそ世間の常識とちょっとズレてる大学という空間では45分で1時間と見做している。15分もさばを読んでいるのだ。なので、通常1コマの授業は実質90分しかないにも関わらず、2時間として計算されている。

ところで、大学の単位は大学設置基準によって定められていて、「45時間の学修をもって1単位とする」となっている。しかし前述の通り、大学の1時間は実質45分なので、例えば一般教養の半期1単位の英語、あるいは演習形式の授業では学生が単位認定を受ける要件としては、定期試験に合格する以前に、

2時間(実質は90分) の授業 x 15回 = 30時間(実質は22時間30分)
これに加えて
1時間(実質は45分)の自学自習 x 15回 = 15時間(実質は11時間15分)
これだけの学習量が必要とされている。

専門の半期2単位の講義科目、および演習科目では、
2時間(実質は90分)の授業 x 15回 = 30時間(実質は22時間30分)
これに加えて
4時間(実質は180分)の自学自習 x 15回 = 60時間(実質は45時間)
これだけの学習量が必要とされているのだ。

自学自習とは単純に言えば予習、復習、課題(宿題)なので、英語の場合は1回の授業につき実質45分の自学自習、講義の場合は実質180分(3時間)の自学自習が必要となる計算だ。

従って、演習にせよ講義にせよ、学生の自主的な自学自習が前提とされているので、補助教材やらスライドやらを懇切丁寧に用意して、学生が予習・復習しなくても理解できるような授業はやってはいけない授業なのだ。

真偽のほどは定かではないが、講義科目よりも英語の授業の単位数が少ないのは、初めて日本に大学ができた頃、辞書や学生の学習を助ける参考書、レコード盤などの音声補助教材等が大学にしかなく、自宅では自学自習ができなかったから、或いはネイティブ教員とのやり取りが授業の中心だったので自宅では英語学習自体が不可能だったからだと、以前にどこかで聞いたことがある。だが昔の英語教育は外国から発信される情報獲得のための訳読中心であったのであり、しかも図書館には辞書は揃っていたはずなので、この話は眉唾ものだ。ただ実験系の演習科目は、実験機材等が自宅にはないために大学内でしか学習が行えないため、多くの場合は1単位科目となっている。

いずれにせよ、今時の英語の授業の場合、授業内でしかできない発音練習やクイックレスポンス、クイックトランスレーション、プレゼンテーション等が講義内に想定されているため、その分自学自習すべき時間数が少ないのはある意味現実に即しているのかも知れない。

なので、学生が自学自習する時間には物理的制限があるので、大学での1年間における総履修単位は上限がゆるやかに決められていて、成績にもよるがおよそ年間で48単位程度となっている。

仮に学生が半期週5日あたり2単位の講義科目を12コマ(24単位)、1単位の演習科目を4コマ(4単位)、合計28単位分履修したとしよう。合計週16コマで1日あたり3〜4コマ程度の履修だ。すると自宅学習時間は180 x 12 + 45 x 4 = 39時間となる。土日は完全に休日だとすると、月〜金までで、1日あたり大学での授業以外に8時間弱の自学自習が必要となる計算だ。

大学によっては年間履修単位の上限を64単位までとしている場合もあるが、これだと学生は寝る時間もないはずだ。

しかし学生アンケートで彼らの自学自習時間の統計を取ってみると「1日の自学自習時間=0〜5分」が約半数を占め、次いで多いのが30〜60分だ。

大半の学生にとって大学が「そこで何を身に付けるか」ではなく、「入学すること」が最終目標である以上、この結果は至極当たり前である。第一1日8時間以上、毎日を勉強に費やしている学生がいたとしたら、それはそれで問題あるようにも思える。俺だって学生時代は前期と後期の試験期間の合計で年間2週間程度しか勉強はしなかった。残りは全てテニスに費やしていた。また学年が上がるにつれ、履修科目数も減ってくるので、4年間での総勉強時間は6週間にも満たなかったと思われる。それでも日本の大学はちゃんと卒業もできるし、卒業後は就職もできる。これには以下の2つの理由が考えられる。

1つには、これまで企業は学生が大学でどのような能力を身につけたか、というよりも、「どの偏差値の大学に入学したか」を重視していたということが挙げられる。それなりの偏差値の大学に入学するには、高校生活、あるいは浪人生活において目標を持ち、快楽を延期して克己心と共に入学試験において合格点を取得する能力を養成する必要がある。確かに、限られた時間内に、効率的に得点を取得する能力を身に付けるには、それなりの計画力、実行力、検証力、計画修正力が不可欠であり、こうした能力が生きる上で重要であることは否めない。企業が高偏差値の学生を優先的に採用するのには以上のような動機が働いていたのかも知れない。

しかし入学試験で高得点を取得する能力は、言ってみれば正解を得る能力であり、このことはどこかに既に存在する答えを見つけ出す能力でしかないとも考察可能だ。しかしながらこの能力は、過去の事例が現在にも有効である時においては、それなりの効力を発揮すると予測できる。

だが現在においては、過去の問題解決法がそのまま現在の問題解決に当てはまらない場合も多々あり得る。発生する問題が過去に例を見ない場合は、その答えが過去にあるとは限らないのである。この場合は、単に過去の事例に精通しているだけでなく、あらゆる知見を演繹的かつ帰納的に統合する能力、すなわち想像力と創造力が不可欠となる。

「温故知新」および「1を聞いて10を知る」能力が必要となるのだ。

これを大学での限られた講義群の中で実践、実現するには、今の体制では非常に無理があることは何より明らかである。卒業単位が140単位ほどもあるカリキュラムから無駄を省くことは元より、各講義、演習を行う際において、学生、教員ともに理念から抜本的に改革することが必要だ。

かねてからアカデミズムと格闘技は同じだと考えている。どちらも「基本」が一番重要だが、基本を踏まえた上でそこから脱し、その人それぞれの特性に合わせてそれぞれの「技」を開拓、createしなければならない。

多種多様な学生が入学してくる今、卒業時にそいつだけに備わった、他者に対して誇れる「技」を修得させるには何をどうすればいいのだろうか?これは大学だけの問題ではなく、学生や教員だけの問題でなく、将来の日本、そして世界の問題に通じているのではないか?大学改革については、まだまだ試行錯誤が続く。



 




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