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Dron-paの日常と非日常
by ドロン・パ
専門教育とパンキョ
16/07/20 08:08
 大学4年間の教育課程には大まかに分けて専門課程と一般教養課程がある。大学によって単位数は異なるが、およそ専門が80単位、一般教養、すなわち「パンキョ」が50単位ほどある。昔は入学した1年〜2年次はパンキョだけを履修し、3年次以降は専門と取り残したパンキョの単位を履修するのが普通だった。今ではさすがにこうした二分割方式を取り入れている大学は少なく、大半の大学は4年間通じて専門、パンキョの単位を同時に履修する方式を採用している。
 ところで「パンキョ」とは、いかなる専門を専攻するにしても、その専門知識、技能を実社会で有用化するために必要な教養、及び自立的学習能力の育成と、グローバリズムに対応できる人材の育成を目的としている。文科省も、大学の一般教育の充実には力を注いでいて、単なる「専門バカ」の養成に特化するのではなく、「幅広い教養を持ち、応用力、適応力のある人材育成」を目指すように声高に叫んでいる。
 確かにこの理念については反対しない。例えば工学部建築学科の学生で、建築学を極め、机上の設計では見事な建築物をシミュレーションできたとしても、それでその設計が「家」として機能するかどうかは別の問題である。建築工学で必要なのは確かな設計技術であることは疑いようがない。ただそれを実際場面に応用する際には別の能力が必要不可欠だ。「家」の場合であれば、そこで暮らす人と人、あるいは地域、景観との関係、歴史、文化等々についての造詣が不可欠となる。ただ、これは単なる知識の寄せ集めとしてではなく、個々の知識を倫理的に統合した上で構築される「感性」に近いものであり、しかも実際場面は常に流動するので臨機応変に対応する柔軟性も要求される。
 すなわち、高度な専門性を現実化する基礎能力養成を目的として「一般教養」がカリキュラムに組み込まれているのである。何も教養とは単なる知識の寄せ集め、色んなことを知っている、というだけのことではない。「パンキョ」とは、そういった知識から帰納的に帰結できる有用な原理原則を現実則に臨機応変に応用する際の能力を総合的に指す言葉だ。
 ところがだ!上記のような教育システムを機能化するように今の大学のカリキュラムは構築されていない!パンキョにしてみれば、個々の授業はそれぞれ専門の教員が工夫を凝らして行われている。

ただしバラバラに。

中にはほとんど大学院レベルの、基礎知識がないと何とも理解しがたいような高度な授業を、それも単に教卓に座ったまま延々と自分の論文を読み続けて、「俺はすごいいい授業をやってる」と思い込んでいる、どうしようもない教員もいる。挙げ句の果てに、「俺の授業が理解できないのは学生がバカだからだ」と吐き捨てる。
 そうでなくとも、例えば「社会分野」「言語分野」「自然分野」の中に、何の脈絡もないままにありったけの授業をばら撒いて、学生には何の指針も示さないまま、「好きな授業を履修して単位を揃えなさい」と指示している。
 そんなもん!ついこないだまで高校生やってて(まだまだ未完成の人間たち)、たまたま偏差値が合致して合格しただけで、とりあえず受験勉強から解放されて、4月段階では将来のことなどあまり考えもせず、「何して遊ぼうか」しか頭にないような学生たちに、筋の通った履修計画なんか立てられるはずがない!いきおい、先輩たちからのアドバイスに従って履修する授業を決めるのがオチだ。

正にこの俺がそうだった!

そしてその方針は

1) バイト、サークル活動に支障ないか
2) 楽に単位が取れるか
3) 授業に出席しなくてもよいか
4) (授業に出る場合は)女子学生が多いか(男子学生の場合)

となってしまう。言ってみれば、たまたま偏差値が合致したがために、大した目的意識もなくイタリアンシェフを養成する学科に入り、しかもまだ何の料理の知識もない、包丁も握ったこともない素人に対して、ありったけの食材をばら撒いて、「さあ素敵な食材がいっぱいあります!頑張って美味しいイタリアンを作ってください!」と言っているようなもん。
 プロのイタリアンシェフなら、発想豊かに、独自の個性あるイタリアンを作れるかも知れない。それはプロにはイタリアンの専門技術の基礎があり、経験から培った感性があり、プライドがあり、そして人に奉仕しようとする「心」があるからだ。彼(女)らなら、和食食材からでも、未知の食材からでも素晴らしいイタリアンを創造することが可能だ。だが素人の場合、せいぜい期待できるのは「頭も使わず、楽してできる」ありきたりのペペロンチーノ、それも多分美味しくないそれが作れる程度だろうし、しかも最も重要なことは、その美味しくないペペロンチーノに発展性がないことだ。
 こんな調子で大学の「パンキョ」が配置されているが故に、一切が無駄であると断言していい。パンキョを統合する理念があったとしても、それを学生に伝える術がないのである。俺だって大学時代の入学から2年間は一切パンキョから得たものは何一つない。出席もほぼしたことがない。どんな講義を履修したかも記憶にない。パンキョが重要だったと気付いたのは大学院に入って専門を深化させなければならない環境に置かれてからである。俺の場合は、大学院に入ってから、様々な文献を独学で読解し、失った2年間を取り戻した。
 昨年イエール大学で講演を行ったが、それに比してイエールの学生は入学時に既に将来を見据えて、4年間でどのような能力を身につけるべきかを知っている。彼(女)らの多くは、「卒業してから10年以内に1億ドル稼ぐにはどうしたらいいか、そのためにはどのような能力が必要か」などと考えている。科目履修する際にも、どの講義でどのような能力が身に付くかをベースに科目選択を行っている。彼(女)らは、言われる前にパンキョ(アメリカの場合はliberal education)を統合する理念を持っていて、パンキョを履修する過程で自分の適性を見つけ、それを発展させようとする。
 のっけから大学入学を「受験勉強の終わり、人生の夏休みの始まり」と捉えるか、「自己実現の出発点」として捉えるかの違いがあるのだ。日本と欧米では大学の成り立ちや、それを取り巻く文化環境が全く異なるので、欧米の理念をそのまま日本に移植することはできないし、それがふさわしいとも思わない。だが今のままではこれから諸外国と対等に張り合っていくことができる若い世代が育たないことは明白である。
 日本が右上がりの高度成長を遂げていた間は頭を使う必要がない。何故なら過去のデータ、経験を繰り返しておけば大きな失敗はないと予測できるからだ。だが現在は停滞、若しくは右下がりの衰退期にあり、日本を取り巻く環境も大きく様変わりしている。従って過去データ、経験が必ずしも未来に適応可能であるとは限らない。この時に必要となるのが高度な専門能力と、それを倫理的に、しかも柔軟に応用、実現化し問題解決を図る能力だ。大学のカリキュラムは、そうした能力を身につけた人材を育成するためのものであるはずだが、そのためには大学自体の、教員自体の、学生自体の抜本的な意識改革が必要であるように思う。



 




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