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Dron-paの日常と非日常
by ドロン・パ
哲学・思想
16/07/14 14:59
 文芸科学や英語、そして格闘技なんかやってると「天性」のある奴とない奴が存在することに気づく。「天性」を持っている奴はさほど努力もしないで批評ができ、英語ができ、試合で勝てる。いわゆる「天才」だ。頭が、そして身体が勝手に動くのだ。恐らく脳の情報処理系の効率性、的確性が「生まれつき」それらの分野に関しては格段に高いのだと思われる。
 だがほとんどの場合、そうした天性を持っている奴なんかほとんどいない。大部分が地道な努力と反復練習によって、何とか擬似的な情報処理系を脳内に構築しているに過ぎない。なので、ちょっとサボればまがい物の情報処理系はすぐさま消滅してしまう。それが故に、常に基本に立ち帰って練習しないと批評も英語も格闘技もできなくなる。これは「生まれつき」備わった能力でない限り仕方ないように思える。「凡人」の宿命だ。
 しかし批評や英語、格闘技は究極的には「技術」の問題であり、天才、凡人に関わらず、その「技術」には当然ながら限界がある。生まれつき「天性」を持っている奴でも万能の神にはなれないのだ。どの分野でも、天才、凡人に分け隔てなく、遅かれ早かれ必ず壁はやって来る。そして多くの場合、この壁は「センス」だけでは乗り越えられない。後述するように、天才は天才であるが故に、天才のままでいると越えられない壁があるように思う。
 「天才」に対して「凡人」の唯一の武器は「負けること」、そしてそこから「考えること」だ。誰でもできるようになりたい、そして試合には勝ちたい。しかし「できない、敗北」はついて回り、その度に悔しい想いに打ちひしがれる。そしてここから次のステージに向けて「考えること」に飛躍するには思想や哲学が必須であり、これはその人の「生き方」に大きく関わる問題となって現象する。ここに指導者としての重要な役割が介在する余地があるように思うが、これについては今回は割愛。
 「天才」は考えない。いや、考えずとも始終できちゃうし勝てちゃうので考える必要がないのだ。凡人はしょっちゅうできないし勝てないので、何故できないか、負けちゃうかから出発してどうすればできるようになるか、どうすれば勝てるようになるかを頭の中で整理して考えなければならない。(ここでも指導者の役割が問われそうだ)。物事の因果律を帰納的に処理し、己の適正に合わせて純化、一般化する必要があるのだ。そして原理から出発してそれを現実に応用し、不備な部分を検証してさらに純化していく、飽くなき修練が必要となる。
 ここで最も重要なことは、多彩な分野における原理原則を、生活全体に拡張することで己と統合することだ。文芸科学も英語も、格闘技も、生きているすべての時間の中で自己との対話において突き詰めていくことが必要であるように思える。「批評」「英語」「格闘技」、これらを「己」を中心として配置し、「己」との関係を構築する、すなわち外部世界としての「批評」「英語」「格闘技」と、自己の内部世界とを相互補完的に投影することが重要なのではないか?やはり「生き方」の問題としての「哲学」や「思想」が鍵となるような気がしてならない。



 




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