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Dron-paの日常と非日常
by ドロン・パ
ロマンティックファシズム
16/07/13 17:08
「価値」は「あるモノ」に内在している固有の特性ではなく、他者の視線によって成立している「幻想」であると帰結できる。何故ならば「ピカソの絵」やダイヤモンドが価値あるとされているのは、多くの人がそれが「価値ある」と思い込むこと、もう少し正確に言うなれば、「他者が価値あると思っている」という他者評価に盲目的に従うこと、すなわち他者の価値観を模倣することを条件としている。
 この点では「ピカソの絵」や「ダイヤモンド」は貨幣の貨幣としての成立要件と構造的同一性を保持している。貨幣が貨幣として成立するには他者が自分の持っている貨幣と事物を交換してくれるという交換可能性、すなわち他者もその貨幣を欲望していること、その貨幣に対する価値観が共有されていることを担保とすることが不可欠であるからだ。
 また「価値」は市場内においては、「欲望の度合い」の尺度として機能していることは明白である。ダイヤモンドの価値が高いのは、その希少性に加えて、単位量に対して欲望される度合いが高いからに他ならない。
 一方で「価値」は他者の欲望を欲望することを契機として成立しているのだが、これは最終的に他者に対してその欲望を具体的に価値化し、その価値を消費したことを他者に対して開示することで完遂される。すなわち、「価値」は衒示的に表示されること、平たく言えば「自慢すること」「見せびらかし」が「価値」の最終的な成立を担保していることは重要である。
 例えばある人に、「ピカソの絵をあげます」「ダイヤモンドをあげます」と言っても、「ただし絵とダイヤモンドは誰にも見せてはいけません、それについて話してもいけません、開けることが不能なコンクリートで覆った状態でお渡しします」という条件を付けたなら、多くの人にとってそれらは「価値」を失うと想定可能であるからだ。
 このことから、「価値」は、他者の欲望を模倣していることを「他者」に対して証明すること、言い換えるなら「あなたと私は同じ価値(欲望)を共有しています」ということを宣言することが前提となっていると帰結可能である。この点が貨幣の「価値」の成立要件となっている幻想と、モノの「価値」の成立要件となっている幻想の相違である。
 社会が未熟な場合、例えば高度成長期においては、価値観が共有されていることと、その見せびらかし行為は経済発展に対しては大きな効果を持つ。例えば「働く」という行為が自明の理として、社会の成員すべてが「会社第一主義」を暗黙裡に了解している場合は、「働く」という行為に「価値」を見出すことが可能であり、結果として会社の利益効率は上昇するに違いない。また白い車を買うことが中流の証であるという価値観が共有されている場合は、白い車を買うことはその社会内で有意となる。
 しかしながら、価値観の共有は強い規範の存在と、そこから発せられる強度な暗黙裡の命令/服従がその成立の条件となっていることは考慮されねばならない。だが昨今において、そのような強い規範の存在は影を潜めてしまっている。昔のような「頑固親父」は姿を消し、「学校の先生」はもはや恐い存在ではない。会社では「ゆとり世代」に合わせた社員教育が行われている。
 社会の構成員の「あるべき姿」を指示する規範が希薄化、弱体化しているということは、反作用として社会の構成員にとって様々な、それぞれにとっての「あるべき姿」の成立を可能としていることにリンクしている。
 高度成長期にあって共通した「欲望」が社会に蔓延し、それによって発生した「価値」が「消費」されたのは、社会が均一であることに加えて、欲望の対象となる事物のフォードシステム的な生産体制が確立していたからに他ならない。
 だが社会は今や均一性を失い、マニアックな個々の集合体となっている。経済発展は常に市場に新たな欲望をかきたて、貨幣の流通量を増加させること、言うなれば「〜ミクス」の目指すところ、で作動するが、そのためには「価値」に対する「欲望」と「貨幣」を放棄する欲望が合致しなければならない。同時に「欲望」が社会に蔓延し、それによって発生した「価値」が「消費」されるためには、前述の通り社会が均一であることが必須である。
 「人並み」あるいは「他の人と同じであること」を至上命令とする社会において、構成員が他者からの視線を重要視する場合は、上記の経済モデルは功を奏するかも知れない。だが所得格差と、不均衡係数が拡大する社会においては、「人並み」あるいは「それより少し上」を目指すことは現実的に困難を極めるに違いない。皆がそれぞれの経済現状を維持するのが精一杯であることに加えて、多様な価値観によって社会が不均一構造に陥っている場合、国家レベルでの欲望を掻き立て、消費による貨幣流通量を増加させるには相当な困難が随伴することは十分に予想可能である。
 仮に年間所得が10万増加したとしても、将来において再度収入が減るかも知れないという不安があり、他者からの目線も気にならない場合は、誰も「見せびらかし」のために消費を行うことはない。せいぜい将来に備えて貯蓄に回るか、現状維持で10万は消えていく。良くても休日に焼肉に行く回数が年間で数回増えるかどうかだ。こうした場合、10万はマニアックな小規模経済範囲で小規模な貨幣流通が発生するに過ぎない。
 経済の根底が「幻想」で成り立っている以上、必要なのは均一化された社会と価値観、そして「未来は明るいのだ」という根拠のない幻想、すなわちロマンチックなファシズムでしかないのではないか。



 




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