ヤーヌスの発生
16/04/28 07:25
「人は女に生まれない。人は女に造られる」(Beauvoir「第二の性」)。性にまつわる言説は、個人を直接ターゲットとしてその肉体に強く作用する。ボーボワールのこの著作は、性権力がいかに個人を構造化し、同じく構造化された社会内に整合性を持って「正しく」配置するかの過程を綿密に分析したものだ。英語では胎児は無性表示のitで表現されるが、我々は生まれた瞬間においてheもしくはsheとして表現される。すなわち我々は産着を着せられたその時から、初源状態たるエデンの世界から言語によって成立する象徴界へと移行させられるのだ。その際、第一の性、すなわち物理的肉体上の性別は装置化されて規範者たる「父」の言語を個人に浸透させる機能を持たされる。そしてこの父の言語はペニスにまつわるstory、つまり父の「物」「語り/騙り」=his story=history、すなわち歴史として個体に刻み付けられるのだ。Freudの「虚勢コンプレックス」はまさにキリスト教伝統に基盤を持つ歴史によって形成されたヨーロッパの父系社会に特徴的な精神病理を理論化したものである。彼によれば、子供は第一自我獲得段階において、自分と他者との肉体的性差に気付き、ペニスの有無にかかわる父からのhistory、すなわち男性中心主義的な規範を受け入れる準備をすることになる。子供は権威者たる父、すなわちペニスを有する男とそれを持たない女との差異をこう認識するのだ。「女も元は男と同じくペニスがあったのだが、父の怒りに触れ、それを切り取られて女になったのだ」のだと。生物学的には哺乳類の雄はすべて雌の変異とし系統発生する(胎児のごく初期状態は全て雌である)ので、むしろ雌こそが初源状態なのであり、雄はそこから派生したdeviantでしかない。ひょっとすると男性には「いらないもの」が付いている、という歴史もあり得たかも知れない。だが全ての人間が例外なく女性から産まれたものであるにもかかわらず、虚勢コンプレックスの物騙りにおいては、女性は本来「あるべきペニス」を欠いた不完全体として表意されているのである。単純化すればペニスの「ある」「ない」はそれぞれ「有徴」「無徴」として差異化されると共に価値化されているのである。言語的にも女性を表すsheはアナグラム化するとhes=音韻的にはhisとして、日本語の「彼女=彼の女」と同じ構造を持っている。こうして常に、既に文化の中に生を受ける我々は、権威に関わって虚勢コンプレックスを植え付けられた瞬間、ペニスにまつわる抑圧意識をベースとして自己を言説化するべく仕向けられていくのである。
例として理想的な家族Aを純理論化した形式において想定する。個別具体的な家族は歴史環境や構成員の関係性の強度によって千差万別であるが、純化した形式は中心準拠点として、そこからいくばくか距離を持つそれぞれの実態を読み解く鍵となり得るからである。この家庭では強い父と優しい母、そして姉と弟の4人で構成されている(一姫二太郎)。当然のことながらこうした家庭では男児は「男らしく」、女児は「女らしく」育てられていく。彼は無意識のうちに虚勢コンプレックスに怯えるが故に父の権威をそのまま受け入れ、彼女は同様に既にペニスを切り取られた者として、言われなき罪悪感と共に常に男性に対して劣等感を持つべく仕向けられる。現実場面では「禁止」たる父の言説、或は父の代理としての母からの言説「男の子がそんなことをしてはいけません」「女の子はこうあるべきです」という言葉が現実世界での彼らの思考行動を規制する。かかる状況において、姉は先に生まれたにも関わらず、後から生まれた弟が「男性」として権威の象徴たるペニスを持っていることに嫉妬し、同時にそれを羨望もする。現実場面では家族は幸せに暮らしていくのだが、無意識の領域においてはそれと裏腹な鬱積した抑圧エネルギーが充満していく。
ここでは男児の分析には触れず、女児に焦点を絞る(もっとも男児の場合も同じ力学が起点となって作用し、自らを「あり得べき男性」として言説化していくと考えられるのだが)。女児は表面上は厳しい家庭に育ち、一般的な意味で「女らしく」成長していく。しかし彼女に刻みつけられた男性に対する劣等感は第二次性徴期を迎え、自身の物理的身体の変化と共に時として複雑な変異を遂げる可能性を秘めている。蛇足ながら、思春期を迎えた女性には更なる男性からの抑圧装置、すなわちファッションやエステのみならず、思考プロセス、経済環境すらもが追い打ちをかける。男女共に自己に対するコンプレックスから完全に解放されているケースは多くはないが、それは総じて男性側の視点からの自己像への距離と比例している場合が多い。すなわち、女性に限って言えば、彼女たちは既に本来は外部に存在するペニスによる権威の視点を自身の心的構造内に投射しているのであり、このことが男性中心主義の見事なアリバイとなっている。男性はあからさまに権威を振りかざすことなく、女性たちが表面上は自らの手で自分たちを制御するべく、言説を蔓延させているのだ。話を虚勢コンプレックスに戻そう。ここで更に先走って言うことが許されるならば、女性の持つそれは、時として女性の心身に両方に跨がって「ヤーヌス」化として現象する場合がある。ヤーヌスと言えば門の守護神としてローマ神話に登場する男性神だ。彼の持つ二つの顔は門の外と内を向いており、それぞれ相反する要素を持つとされている。ここでは門は初源的空間を差異化する装置としての効果を持っている。ヤーヌスに基盤を持つ門があって初めてある空間が相反しつつも互いに補完しあう内と外、オモテとウラに弁別されるのだ。権威の象徴たるペニスの存在は、ある時女性をこのようなヤーヌスへと変異させるのではないかと考えられる。
女性は思春期を迎えると共に、自分の身体が権威の象徴たるペニスに欲される対象であることを気付くに至る。その瞬間、彼女の心的構造はペニスに対して両極な感情を持つべく弁別される。すなわち権威に欲されるということは、取りも直さず自己の価値を権威が定めた象徴体系の中に固定すること、つまり権威に存在を認められたと認識することに接続されている。一方でこのことは同時に彼女を隷属の立場へと貶めたペニスの権威を肯定することとも同義でもある。欲されることで自分の不完全さを補完するはずのペニスは、あくまで初源的には根拠のない自己の不完全さを健在化させてしまう装置でもあるのだ。従って彼女のペニスに対する愛着は、ヤーヌスが二重性を持った空間を措定するのと同じく、権威に対する憎悪と表裏一体なのである。「愛憎」という言葉があるように、愛情と憎悪は同じ心的エネルギーから派生した象徴体系内での発露でしかないが、「無徴」に対する彼女の意識は権威からの圧力を受けて二重性を特質とするそれへと仮構されるのだ。多くの女性たちにとって、ペニス自体がその所有者とは切り離され特別な意味を持っているのはこのためである。時としてペニスを男性から「切り離して飼いたい」あるいは自身の身体に「生えてきて欲しい」という感情は、そのままペニスを権威化されたものとして認識しつつも、それを男性から奪い取ることで、女性が主体的にペニスを支配しようとする願望の証左であり、それは図らずもペニスに対する愛着を表明する一方で、それよって象徴界内に言説化される女性たちに発生する負圧を現実界での意識に転移させたものなのである。ちゃうか???
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