主体を取り巻く環境の変遷が、同じくその主体の心的構造自体の変化に影響することは自明の理である。そして文学研究は既成事実として主体が無条件に受容している現象が、何故そのように措定されているかについての過程を問題の起点とする。すなわちある現象定位の根底にある力学を、その対象となる主体との相互関係における権力構造において明らかにすることを目的とする。この分野ではクーンのthe theory of paradigmが秀逸な結果を残している。自然界における初源的存在から逸脱した我々人間は、Nietzscheの看破した衆愚として、golden beastを亡き者にした後、自然界ではフリークでしかない我々に安住地を確保させるためのいびつなコロニーを成立させた。そしてこのコロニーの存続はそれ自身よりはるかにいびつな法、すなわち文化という権力によってその構成員を含めた存在様態を決定付けることで成立している。そしてこの権力が「性」をターゲットにすることで多方面に渡り効力を発揮していることはFreudの指摘を待つまでもない。Foucaultの「監獄の誕生」「狂気の歴史」は、こうした「操られた性」あるいはその「形式」に関して、いかに我々の正常/異常の弁別が歴史の中で恣意的に操作されてきた人工物であるかを見事に暴きだしている。自然界に生きる野生動物の性行動は一義的に行動意味論を決定されており、遺伝子存続のための行為以外に目的を持たない。しかも動物が生殖可能時期を過ぎるとその本体もほぼ同時に死滅するのに対し、人間の場合の生殖可能時期は全生涯のうちの一部に過ぎない。こうした本能の壊れた我々の行為は同性愛、異性愛を含めて時代の規範と当事者の関係性によって様々な形式に決定されてきた。例えば古代ギリシャでは婚姻関係にある男女間の生殖を主眼としたその行為は下等動物のそれと同じであり、むしろ崇高な純愛としてのイデアを根底に持つエロスは究極的には同性愛の間にしか認知されてこなかった。これは同性愛においては生殖という動物に類する問題を確実に回避できるからであると推測できる。日本における「お小性」と君主との関係も同様であったという記録が残っている。つまりエロスとは人間だけが、人間たる証として体験すべき儀式的な意味が付与されたものだったのである。法律上の婚姻関係においては血統保持、家系保持のため、生殖という問題が随伴するが、少し乱暴な言い方をすると、動物と異なる崇高な人間たるものは生殖を目的としないイデアに基づいた性交を行うべきであったのである。現代においてはこの儀式性は反転して固定した男女の「愛情表現」の一つとして既成事実化している。これは資本主義の初期発達段階において、労働人口、消費人口、そして土地に根ざした世襲財産制を確保することと無縁ではない。同性愛ばかりでは人工問題の解決が困難になり経済活動が停滞し、80歳の人間が15歳に性志向を向けても同様の結末を招く。また非嫡出子が大量発生すると分与によって資本主義の基盤たる私有財産制が瓦解してしまうからである。また元来社会的に女性は古代ギリシャなど、特殊なケースを除いて母として自分の子を育てることを要請されている。その為「母性愛」なるものがあたかも女性には生得的な本能であるかのように社会的に言説化されており、通常現代においてはどこの子か分からない子を自分の子と同等の愛情を注いで育てることはしない。ところがこれも古代のムラ社会では当たり前であった。そして現実的な生活場面においては自分を妊娠させた男性の協力が必須であるから、女性は自分の子供の父親を確定しておく必要があるため、不特定多数の男女交接は回避しなければならない。マクロレベルにおいては、Max Weberの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が明らかにしているように、資本主義とキリスト教は車の両輪のごとく発達を遂げ、帝国主義時代を通じて大きな勢力を保っていたヨーロッパ諸国から、ただしカトリックではなくカルヴィニズムの洗礼を受けた国に限るが、そしてアメリカから、資本圧力と共に倫理圧力となって全世界に蔓延して行った。古代キリスト教の発生段階においては、環境的要因から同性愛や獣姦、フェチ、婚外性交渉は種族と系統保存のため禁忌されていた。だが発展途上にあった資本立国においても、環境は古代キリスト教発生のそれと異なるにも関わらず、それらは逸脱行為として同様に禁忌され、闇の中でのみ営まれてきた。蛇足ながら、ベルリンの壁崩壊後、日本を含めた資本主義国での経済停滞、そしてそれに伴う社会規範の弱体化が、それまで抑圧してきた「逸脱、異常」を押さえきれなくなり、「援助交際」を含めて多様な性関係がカミングアウトしてきたことは記憶に新しい。ちなみにアメリカにおける援助交際はCarter大統領の統治下にあった70年代、すなわち極めてアメリカ経済が崩壊の危機に瀕し、赤字国に転落した時期に社会現象となっている。現代ではいわゆる「二次元フェチ」も社会的にも認知されつつある。従って現在揺らぎつつある「あり得べき性関係」とは資本主義圏内における権力作用の結果として我々の脳内に結実させられたものなのであり、しかもそこには「家庭内における愛情関係によって結ばれていると仮定された法律上の婚姻関係者」が暗黙裏に了解されている。平たく言ってしまえば、我々が社会的に認知し得る性関係は、本能の崩壊ゆえに多種多様な意味論的形態をとり得るにもかかわらず、「家庭内における男女、或は近い将来家庭を構成するであろう男女間」に限られ、極度に一定の方向へと無意識のうちに社会権力によって強制的に仮構されたものなのである。言い換えるなら、特定の個人同士の間に発生する愛情という精神志向も、それは権力作用の帰結である一方で、元来様々な形態を取り得る性行動は、本質的には同一軌跡を描かない事象であるにも関らず、これを同一方向に無理矢理矯正したものが現代の主体内に構造化された性形式なのである。かつては禁忌すべきであったそれは、資本経済のために「正常性」を付与されているのである。だが問題は、これが強制的に仮構された人工物である以上、必ずやそれは「逸脱」の発生を妨げ得ないということである。ましてやもともと我々の性本能は崩壊している。そこで外から強制的にはめられた枠からはみ出ようとする鬱積したエネルギー、それは枠があって初めて反作用的に発生するのだが、それは「過剰なるもの」として必ずや生体内に発生する。ルールがあるから「ルール違反」に対する志向が発生するのと形式的には等しい。性描写が隠されれば隠されるほど、それに対する志向を煽る結果を導くのと同じである。Freudはこの呪われたエネルギーが芸術を初め人間の文化的、経済的な建設活動に転移されていると指摘しているが、その発露が社会的に限定され、閉塞している場合は、そのエネルギーは再び主体内に再投下される以外にない。すなわち主体は自己内部において過剰の処理を行うべく運命付けられるのだが、都合よく現代においてはこの過剰を処理する方策は多岐に渡っており、メディアの発達も伴ってますます容易になってきている。およそ現代資本社会は「正常性」を刻印する権力を個人に差し向け、そこで発生した過剰エネルギーの蕩尽場所を、同じく資本社会内部に準備することで貨幣流通の担い手として個人を再利用しているのだと言えよう。だがここで問題としているのはこうした社会権力の装置と化した個人の有様ではない。「正常」の反作用として発生した「過剰」は、その本質からして定型を持ち得ない。通常エクスタシーに達した男女の身体は物理的に劇的な変化を遂げるが、その変化は男女共に生理学的にいかに受精の可能性を高めるかに大きく寄与している。従って過剰処理は生殖とは無関係であるが故に、必ずしもエクスタシーを得なければならない、或は交接を伴わなければならないという規定からは解放されている。大雑把に言えば、男女間、或はそれに限定されず、現代における生殖を目的としない性形式の場合、それは当事者の関係性、場所に関らず過剰処理という観点からすればギリシャ時代のイデア的エロスを実現する可能性を秘めていると考えられるのである。我々は「呪われ」てはいない。むしろエロスによって自らが崇高なる人間であるという祝福を享受する資格を十二分に備えているのである。