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Dron-paの日常と非日常
by ドロン・パ
行為する行為の儀式性
16/03/03 10:49
人の意識作用は自己を中心として「他(者)」をその意識内に配置することで構成されている。このことは、他者の消失が必ずしも自己意識の消失を伴わないのに対し、自己の意識の消失は必然的に「他者存在」の消失を随伴することから例証され得る。すなわち自己意識こそが意識され得る全宇宙の存在を現象させる根底的な原点として機能しているのだ。
しかし明らかに、この宇宙の構成要件は他者を中心とするそれにも当てはまるのであり、このことはある人がその意識作用によって構成する宇宙内には「他者」がその内に還元されることを拒む、実はもう1つ別の異和的な宇宙が存在しているということ、言うなれば自己/他者のコミュニケーションにおいては、自己の中心性をご破算にしてしまう別の宇宙が内包されているということを示している。
以前にこのことについて「二焦点を持つ楕円宇宙」という観点から例証試みた際は、ヒト科生物のコミュニケーションにおいては、必ずや互いに互いの宇宙をそれぞれの宇宙内の要素に還元しようとする闘争が秘められていると結論した。
しかし今一度この楕円宇宙の構造を手がかりに「愛」の存立形式を素描することは、通常社会内に作用する中心なき権力の構造を明らかにすることに対して1つの示唆を提供するものだと考えられる。
通常、自己/他者の関係が「愛」と規定される場合において、それぞれの意識作用の中心点は、極めて近似的な1点へと収束するように認識されている。現実的には本来規定され得ぬ「愛」の内実については不問に付されたまま、「私があなたを愛している」という自己の意識作用と「あなたが私を愛している」という他者の意識作用は、立証不能のまま同一性かつ双方向性が確保されている。
しかしながら、ある自己にとって他者とはその宇宙内に還元不能な要素であったはずである。他者とはいわば自己の構成する宇宙の規定においては唯一の反乱分子たる不確定要素であり、またこのことによって他者は自己の宇宙の確定性、全体性を破壊する存在でもあるのだ。より単純化しても、ある自己にとっての「私はあなたを愛している」とある他者の「私はあなたを愛している」は、その意味作用においては現実的現象を鑑みても決して同一ではあり得ない。常識的に考えても愛し合う2人が同じ景色を見ていたとしても、2人の心象に刻まれるイメージは歴史、過去の経験、その時の心理状態によって異なることは明らかである。
しかも「愛」という志向作用が、時と場合において変異性を持つものである限り、他者の意識作用としての「私はあなたを愛している」は自己の宇宙内においては意味をなさないはずである。だが自己/他者の関係が、それでも互いに「愛」と規定されている場合は、それは何かしら特殊なコミュニケーションの作用によって「意味」として現象しているのではないかと想定可能だ。すなわち、本来的に「意味」を持ち得ない志向作用に対して、何らかの意味を強制的に付与する機構の存在が予想可能だ。
一般的にコミュニケーションとは意味の交換であると規定できる。しかし「愛」の関係を「二焦点楕円」の構造から考えると、「愛」自体が意味を持ち得ないのであるから、交換されているものは例えば社会内で是認されたシニフィエではないことは明らかである。だとすると交換されているものは「交換」という行為そのものでしかあり得ない。「愛」のコミュニケーションにおいては、「交換すること」自体が交換されているのだと結論できそうである。
キリスト教においては、ヒトの罪の贖罪としてのキリストの殉死を「愛」として認知することを起点としている。しかしながら「父・子・聖霊」からなる三位一体から発せられる「愛」を理解することは、ヤハウエ自体の存在が不可知の領域に置かれているが故に原理的には拒否されている。キリスト者における「愛」のコミュニケーションは、最初から存立不可能なのである。しかしそれが故に、言い換えるなら「愛」自体が不可知であるが故に、キリスト者はキリストを通じて常にヤハウエとその愛に対峙することを要請されているのだが、ここでの重要な機制はヤハウエからの「愛」が不可知であるが故に、キリスト者からのヤハウエに対する愛は常に負債を追うてしまうということである。キリスト教においける愛のコミュニケーションは、「10与えられたら10返せばよい」というものではあり得ない。愛によって与えられた負債が意味するのは、自分が何らかを与えられていることは認知できるが、何をどのようにどれほど与えられているかが不可知であるが故に、十全に返すことが不可能である、ということである。従ってここでは常に「返し続ける」ことのみが、ヤハウエの愛に対峙することとして選択可能な行為となる。
現実レヴェルにおいて、「愛」によって結ばれた2人にとって、それはそれぞれの自己にとって他者がその意識内に構成する宇宙にとって異和的であるが故に不可知であり、その内実を問うことは意味をなさない。むしろひたすらに「愛」を交換するという行為を交換することによってのみ、2人の関係性は確証可能となるのではないか。すなわちここでは「行為することを行為する」ことが求められているのであり、通常愛し合う2人にとって「儀式性」が要請されるのはこのためであると思惟可能である。



 




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