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Dron-paの日常と非日常
by ドロン・パ
愛は存在しない・・・
16/02/22 11:54
中世の宮廷を舞台とするTristan und Isoldeの物語においては、「純粋なる愛」は不倫という形式にしか成立し得ないことが描かれている。古代ギリシアにおいても、idea的な愛は婚姻関係の外に求められていた。婚姻は愛のためにあったのではなく、血統と財産に正当性を与えるために社会的に要請されていたのである。
TristanとIsoldeらが描き出す「愛」の形は様々な困難をくぐり抜け、あと一歩というところで必ずや成就することが先延ばしされている。そして最後にはIsoldeはMarke王のもとに帰ってしまうのだ。
彼らの物語は端的に純粋な愛は常に阻害されることによってのみ純粋という資格を得ていることを提示しており、なおかつ彼らの愛は純粋であるが故に、成就することが最初から否定されている。
すなわち、「愛」とはその根本的な成立形式において、「不可能」であることが前提とされているのではないか。

以下2つの論考(1)(2)は以前の別ブログからの転載である。


(1)
誰もが「(異性)愛」を意識することは可能であるが、それを規定できるものはいない。愛し合うカップルは日に何度も互いに愛をささやき、規定し得ぬそれを確認しようとする。「私はあなたを愛している」と。だがコトバの意味作用は記号としての代理物でしかなく、signifiantとしての「愛」はついぞコトバの中には現象しない。それは抱擁やキス、セックスにしても同じであり、これらは「愛」の代理物であって「愛」そのものではあり得ない。むしろ我々が「愛」の存在を感じるのはそうした行為とは別次元である場合が極めて多い。
文学に「愛」をたどると古代ギリシャにおけるidea的な「愛」から近代を経て現代に至るまで、「愛」の語られ方は様々に変化してきたことが判明する。このことは翻って語られる「愛」そのものが変化し、それに適切な表現形態が要請されたからに他ならない。そしてこの「愛」という得体の知れないヒト科の生物に特有の感情が、そもそもそれが通時的に、また共時的にも「愛」として認識されること自体が、それが本能に由来するものでないことを物語っている。
もし「愛」が本能的なもの、すなわち本人の意識とは無関係に本人を動かすプログラム的なものであれば、我々は自然界の動物と同じく「愛」そのものを意識することなく行動できるはずである。従って我々の「愛」とは極めて人工的に、しかも後天的に我々の脳内に構築された意識作用であると結論可能である。
だとすると「愛」という意識作用は、特に近代以降は主体構造論に起源を持つと仮定することが理論上は可能だ。同時に我々は、「愛」が規定され得ぬものであったとしても、経験的にそれと正反対の感情、すなわち「憎悪」が「愛」とリンクしていることをも知っている。極めて強い「憎悪」は、同じく極めて強い「愛」からしか発生しないからだ。ここから「憎悪」を手がかりに、「愛」の規定は除外して、その形態を素描することは可能かも知れない。
「憎悪」は言うまでもなく、他者に向かう極度にネガティブな感覚であり、その感覚が向かう先の極点には相手の存在の否定、すなわち「死」がある。主体構造論的観点からすると、「私」という意識を中心として構成されている宇宙内において、他者に対するその存在の否定を主眼とする憎悪は、「私」という意識から最も遠い無限の彼方に他者を追放しようとする意識として理解可能だ。だとすれば「憎悪」の反対物である「愛」とは、対象となる他者を極めて「私」という意識が構成する宇宙内の近距離内に置きたいという衝動に由来すると推測され得る。
しかしここに大きな「愛」の存立不可能性が存在していることはすぐさま理解されよう。「私」に最も近い距離とは、それは「私」と「他者」の間の距離がゼロの時、すなわち「私=他者」となる時である。言ってみれば「愛」とは「私」という同一性が「他者」という差異性と一致する狂気の中にのみ存立する意識関係であると思料可能である。我々が愛する対象と抱き合い、キスやセックスによる体液の交換を通じて一体化することを欲する衝動はここに由来するのかも知れない。愛するがあまり相手の肉体を切り刻み食してしまうという猟奇的殺人が現実に存在するが、これは「愛」の究極的な一体性を現実レベルで実現しようとする志向作用に起因するのではないかと想像可能だ。そうでなくとも恋人同士において相手の肉体に噛み付くケース(特に女性に多い?)は少なくないのではないか。
だが今我々が意識化している「愛」という志向作用は、「他者」の存在が前提となっていることは明らかである。「私」の愛を受け取る「他者」、或は「私」に向かって「愛」を差し出してくれる「他者」が存在しなければ「愛」そのものが存在し得ないからだ。すなわち「愛」が互いの差異性の解消を志向しつつも、その「愛」の存立には「他者」は「私」を中心とする宇宙の中の一要素に還元されねばならないという矛盾が包含されている。
ここで再び「憎悪」に目を転じることは、この「愛」の存立不可能性に若干の光を当ててくれるように思う。憎悪が願う他者の死は、完全なる「他者の死」によっては完成されない。何故ならば他者が「私」を中心とする宇宙の圏外に追放されてしまえば、それはもはや「私」に意識され得ず、憎悪自体が消滅してしまうからだ。むしろ憎悪が最も願うのは、他者が極めて死に近い状態にありながら、私の宇宙の彼方でもがき苦しむこと、すなわち「生きながら死につつ、死にながら生きている状態」であろう。
主体構造論的に限りなく死へと漸近しつつある状態においてのみ憎悪が完成されるとするならば、その対極にある「愛」も、「愛」の担い手である「他者」(同時に「私」)が「私」(同時に「他者」)へと漸近しつつある運動状態においてのみ確保されるのだと想定可能だ。そして恐らくは「愛」によって「私」と「他者」が関係付けられるとき、それぞれはそれぞれを中心として構成する宇宙を素材として、それぞれを中心とする楕円の2焦点に配置されるのだと理解可能である。従って「私」と「他者」は互いに楕円内に存在するが故に最も近く、同時に2焦点を構成するが故に最も遠くにあり、主体間の距離は漸近しつつも、決して同一化することはない。愛し合う2人は極めて差異性を極小化した状態においては互いの愛の同一性を確保し得るが、差異性が極大化した状態では互いの愛を担保とすることができない。この二律背反構造が愛し合う2人にとって幸福感と苦悩を同時生成するのだと考えられる。
元は一つの生物でありながら、今や二つの主体に分割された我々は、限りなく同一体へと収斂する漸近運動を実体化する行為によってのみ互いを担保する関係性を確保できるのであるが、「愛」自体がその成立を阻むまさにその根本要因によって成立しているが故に、それは常に挫折することを運命付けられている。言い換えるなら、恋人同士が常に「愛」を確認し合う必要に駆られるのは、「愛」がそれぞれの主体の差異性の解消を目指しつつも、その差異性の確保によっても成立するという不可能性を孕んでいるためではないか。
体験的にも、我々はどんなに愛し合っても、「足りない」と感じたり「切なく」なったりする。このことは愛が不可能であるからに他ならない。しかし、この不可能性があるが故に、常に「足りない」という感覚を随伴するがために、我々は病的に愛をどこかに求めるのだと帰結できるのではないか。


(2)
「私(Subject)」という存在(=意味)は他者との差異によってのみ自己を確定し得る。それは「赤」という色の意味が「赤」しか存在しない世界では成立し得ないこと(赤の意味は他の色との差異=対比によって成立する)と理由を分かち合っている。すなわち、「私」の意味は「私ではないもの=他者」との関係性によって根底から規定されているのだと言えよう。更にヒト科生物の意識主体としての「私」の存在は、「私」を中心として構造化された世界内に事物(私でないもの)を配置した宇宙を構成している。「私」こそが宇宙を現象せしめる原点なのであり、このことは「私」の(例えば死による)意識の消失と同時に、私が構成した宇宙をも私の意識から同時に消失することから例証され得る。繰り返すなら「私」は、こうした「私」自身の世界内に過不足なく配置された他者との差異によって意味付けられているのだ。

この時、「「私」は「M」を愛している」(便宜上「私=男性」「M=女性」とする)という言説をこの「私」の存在上の現象論から分析すると奇妙な関係が浮かび上がってくる。明らかに「私」は「私」を中心とする世界の中心たる構成者であり、この中で「M」は「私」の意味作用を確保する他者として「私」の世界内に配置された要素の1つとして存在している。だが同時に「M」自身もヒト科生物の意識主体として、「M」自身を中心とする宇宙の構成者であり、その中では「私」はもはや中心たる資格を奪われ「M」の宇宙内に配置された1つの構成要素でしかない状態として措定されている(2010.02.25のメモ参照)。

ここで「愛する」という意識を「私」、或は「M」がそれぞれ他者が構成する別宇宙内の中心に自身の中心を重ね合わせる(憑依する)体験を通じることによって得られる悦びの感覚であると仮定しよう。平たく言えば、京都鴨川のほとりで夜景を眺めて愛情を確認し合っているカップルの場合、男或は女は自分の視点から見ている景色を他者の視点からをも追体験し、その体験の感覚が同じであるという仮定のもとに悦びを感じることで互いが「愛している」という感覚を得ているのだと考察可能だ。男女のセックスにおいても視点を重ねれば具体的な行為としての「入れる/入れられる」は「入れさせる/入れされられる」との局面を循環するが、そこに観察されるのは主体性の転位である。

この状態において、「私」や「M」がそれぞれ別個に構成する宇宙内においては、それぞれが相手の構成要素であることを拒否し、それぞれが他者の中心に自身を憑依させようとする闘争劇が繰り広げられているのだが、その結果表言語、もしくは性の交換によるコミュニケーションによって創出される間身体は「私」「M」がそれぞれ中心を保ちつつも同時に互いの宇宙内の構成要素となり得る状態、すなわち2つの焦点を持つ楕円的世界を構成しているのではないかと考えられる。

ここから帰結できることは何か?「私」と「M」が別個に構成している宇宙は同一ではあり得ない。「私」と「M」が同じ金閣寺を見ていたとしても、それぞれが意識化する金閣寺のイメージはそれぞれの歴史によって異なるはずだ。ましてや社会存在としての男女は常に、既に権力を被ったgenderであり、生得的、或は社会的要因によって視点も異なり結像する世界観も異なるのが普通だ。ここでgenderの局面のみに焦点を絞り、2人が楕円的世界において同一宇宙を構成するときを考察すると、その本質がtrans gender的様相に接続され得ることがすぐさま理解できる。何故ならばそれぞれの視点はfeminityとmasculinityの間を循環し、その「どちらでもあって、同時にどちらでもない」驚喜(狂気)の状態となるからである。

しかしながら現実場面においては、前述の闘争劇はtrans genderに帰結することはなく、概ねmasculinityを中心とする側にfeminityを回収、配置しようとする運動が近代以降の社会には観察されている。このことは私有財産制を基盤とする資本主義の発達と無縁ではない。何故なら私有財産、及び財産継承においては人口産出母体、また消費母体としての「家族」という形態のみならず、「血縁」が非常に大きな役割を果たしてきたからである。財産継承者と労働者、消費者を産出するのは女性であり、また資本主義の初期発達段階においては避妊技術も高くはなかったので、女性のsexualiteを管理統括することは私有財産制をシステム化するためには是非とも必要であったと考えられる。そのため、あたかも男性が自己を中心とする宇宙内に女性を配置するが如く、現実場面においては女性は「イエ」に囲い込まれそこから外へ出ることは禁止されてきたのだと考察可能だ。

今一度楕円世界に戻ろう。この楕円の構造は2つの全く異質な円が合わさり同一平面を構成したものだ。ここで「異質」なるものを「同質化」しようとする運動は意味をなさない。同質化すればそれは他者たる他方の焦点を抹殺することであり、円化することに他ならないからだ。他者の存在との関係性によってのみ「自己」としての主体が構成されるとは前に述べた通りである。肝要なことは、まず互いが「異質」であるということ、そして互いの異質性を保持しつつ、それをtransすなわち「越える」ことではないだろうか?



 




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