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Dron-paの日常と非日常
by ドロン・パ
コトバのイマージュ
16/02/22 11:35
コミュニケーションによる「言語」は交換可能性をもってその言語たる本質を獲得する。貨幣、あるいは性であれ通常言語としてのコトバであれ、交換され得ぬものはおよそ言語として成立せず、コミュニケーションを構成し得ないことは明らかだ。しかしここで肝要なことは、言語は二重の意味において、それ自体には意味を有しないということだ。その根拠の一つは古くにSaussureが指摘したように、言語の意味作用は「差異」によって発生するということが挙げられる。言語の意味は単体としての言語そのものに内在するのではなく、他の言語との差異の間に発生するということと言い換えてもよい。二つ目の根拠はBarthesの「遅延」においてである。
 この「遅延」という概念に焦点を絞って、「金閣寺は美しい」というコトバを発した場合のコミュニケーションの可能性を例として取り上げると、「言語」の交換場面においては意味の確定性は偽装されているということが明らかとなる。この発話における「金閣寺」の意味は通常は京都に実在する「金閣寺」を差し示すと考察可能だ。だが実際は、「金閣寺」というコトバは「記号」であって、当然のことながら実在する金閣寺そのものではあり得ない。それは単なる音声として、或いは文字として実在物を表象する代理物でしかない。
 一般的に「金閣寺」というコトバの発生の背景には、そのコトバを発する話者の脳内に蓄積された「金閣寺」に対するイマージュがある。ここで見逃せないことは、この源泉たるイマージュはヒト個人によってそれぞれ異なる、更に厳密に言うなれば表象としてのコトバは同じでも、それが個人内部において想起されているイマージュは一つとして同じものは存在し得ない。
 あるヒトは実在の金閣寺を見ずとも、例えば歴史の教科書からそのイマージュを構築する。またあるヒトは三島由紀夫の小説からそれを構築するだろう。またこのイマージュは、個人の体験に由来するものであるが故に、ある時点での「金閣寺」のイマージュは、その時々の別の体験によって変容する可能性を秘めている。すなわち、「金閣寺」というコトバの意味は、それぞれの個人の歴史に連動してついぞ確定することはないのではないかと考察可能だ。
 同様に「美しい」というコトバの意味作用も、個人によって何を表象するかは千差万別だと思われる。例えば19世紀のアメリカ作家であるEdgar Alan Poeは愛する者の肉体が朽ち果てていくそのプロセスに「美」を見いだしていた。彼の詩Annabel Leeを体験した者は、三島の意図には反して燃えさかり朽ちていく過程にある金閣寺に美を見いだすことも可能だ。
 しかして「意味」は常に「遅れて」やって来る。そして常にそこから逃れ出て行きついぞ確定することはない。しかしそれでも通常場面において:
A:金閣寺は奇麗だな。
B:そうね(金閣寺は奇麗です)。
というコトバのやり取りはある意味コミュニケーションを構成している。しかしながらA、或はBの脳内に準備されているイマージュは全く異なる場合も想定可能だ。それでも尚、ABは互いに自分の持つ「金閣寺」のイマージュが、相手の持つイマージュと同じであるということが無担保に仮定されており、この思い込みこそがコミュニケーションを偽装する基盤となっている。言うなればABそれぞれのイマージュは永遠に平行線を保ちつつ、交わることは原理的に不可能である一方で、それぞれのイマージュは互いに実在物を媒介として呼応関係を取り持つことのみによって、コミュニケーションを構成しているのではないだろうか?



 




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