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Dron-paの日常と非日常
by ドロン・パ
ヒト科生物の可能性
16/02/15 11:14
人は罪深いと言われる。罪の発生源はヒト科生物の脳が肥大化した結果、本能のプログラムから逸脱したことを契機とすると、取りあえずは結論しておこう。脳が発達する以前のヒト、すなわち類人猿以前の我々の祖先はその化石が示す通り前頭葉も小さな容積しか持っておらず、恐らくは他の高等動物の脳とほぼ同じ程度の機能しか有していなかったと推定可能である。従ってこの段階においては創世記が物語る「知恵の実」を食する以前のアダムとイブのごとく、ヒトは神の意志、すなわち生物学的には本能のプログラムに従って生を保っていたと仮定できよう。
しかしながら身体的な運動能力や外的から身を守るため、あるいは獲物を補食するための強靭な外皮や鋭い牙を持たないヒト科生物は、種族保全のために他の動物とは異なる進化の過程、すなわち脳を発達させたのだと思考可能だ。中でも後にヒトとしての属性を司る高次機能の中枢となる前頭前野の発達はヒト科生物の特徴である言語の獲得に大きく寄与したことが判明している。そしてこの言語の獲得が、聖書で物語られている「知恵の実」を食した事と符号することは比喩的解釈を待たずとも明らかであろう。
創世記では「知恵の実」を食したことによってアダムとイブは自らが裸であることを恥ずかしく思い、イチジクの木の葉でその身を覆ったとされているが、このことはヒト科生物が言語を操る能力を得たことにより、自己の存在に対峙すること、すなわち「意識」そしてそこから帰結する「意思」を持つに至ったと結論可能である。禁を犯したアダムとイブが、神の目を逃れて自らの身を隠そうとしたという記述はこの事実を裏付けているが、彼らの「意思」が神が定めた掟からは逸脱したものであること、言うなれば本能のプログラムから逸脱したものであることは明らかである。
前頭前野がヒト科生物の意思や意欲、思考を司っていることは周知の事実であるが、これらが「欲望」と密接にリンクしていることはすぐさま理解できよう。そしてヒト科生物が本能のプログラムから既に逸脱しているということは、ヒト科生物が種としての統一性を欠如させていることを示しているのであり、その結果、自然界の法則からは外れた「欲望」が種としての全体性を犠牲にして暴走すること、「人間同士が傷付け合う」事は必至である。パウロが「ローマ人への手紙」の中で繰り返し語る「原罪」、たとえ聖書ではキリストがこの原罪の贖罪として処刑されたという記述を認めたとしても、生物としてのヒトが決して拭うことのできない罪の原型がここにある。
同じく創世記においては、この「人間同士が傷付け合う」事はCainとAbelの物語に集約されている。CainはAbelを妬み故に殺害するに至り、その結果神によって「エデンの東」に追放されたとされている。しかしここで神がCainに語った言葉、If thou doest well, shalt thou not be accepted? and if thou doest not well, sin lieth at the door. And unto thee shall be his desire, and thou shalt rule over him.(欽定訳)はヒト科生物の可能性を考えるにあたって極めて重要である。thou shalt rule over him.またはアメリカ標準訳ではdo thou rule over it.は、その語義通りに解釈すれば「汝は罪を治めなくてはなりません」という神からの一方的な命令を示していると解釈可能である。
だがJohn SteinbeckによるEast of Edenに登場するLee Chongの解釈は、この原罪とヒト科生物の関係について1つの解決を与えていると思考可能である。Lee Chongによれば、thou shalt rule over him、もしくはdo thou rule over it.の部分は旧約聖書原典のヘブライ語ではtimshelであることが明らかにされている。そしてここで重要な鍵となるのはこのtimshelという言葉はthou mayest、すなわちyou mayと解釈可能であるということをLeeが示しているということである。彼の主張はこうだ。神がCainに発した言葉は、それは決して命令ではなく、「罪は汝を慕い求めるが、汝はそれを治めてもよい」という許可であるということだ。
すなわち、ヒト科生物が自然界から逸脱した存在である以上、それは決して神の世界に立ち返ることは不可能である。それは聖書においてヒト科生物がCainの末裔として措定されているということに符号する。だが神が命令ではなく「してもよい」という「許可」を与えているということは、ヒト科生物には本能のプログラムから外れているが故に、元来「罪を治める能力がある」ということをLeeは示しているのだと解釈可能である。
確かにヒト科生物は進化の過程において本能から外れ、互いにとって危険な存在となっていることは間違いないであろう。だがこのことはヒト科生物の「義」としての可能性を全く否定するものではないことは明らかである。振り返ればヒト科生物が互いに殺戮、略奪、欺瞞を繰り返してきたことを歴史は物語る。だが同時に歴史はその都度それらを正してきたのもヒト科生物であることを証明している。人を傷付けるのが人であるとしても、人が人を傷付けていることを自覚できるのも人のみであり、そして人のみが人を傷付けていることを反省し、軌道修正する能力を有する生物であるという簡明な事実、すなわちヒト科生物の可能性、このことを今一度、単に悲観主義に陥ることなく再認識することも必要なのではないか。



 




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