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Dron-paの日常と非日常
by ドロン・パ
It is up to you!(あなた次第です)
16/02/10 11:49
記号と快楽、そして闇からの脱出の話をしよう。

その前に快感に関するヒト科生物の特質について1点だけ確認しなければならない。
我々は極めて快感に関わっては心的存在として現象しているということを。
現実に我々は物理的な肉体を持つ生物として存在してはいるが、自然界の動物のようにその肉体の生命存続のみ、さらに詳述するならばそれによる遺伝子の存続のみを旨として生きているわけではない。自然界の動物はさながらプログラムされた精密機械のごとく、後世に種を伝えることを生の第一原則としており、生殖能力の限界とその生命の限界は一定の範囲内においてほぼ重なっている。その一方で既に本能というプログラムから逸脱したヒト科生物にとっては生殖能力と生命の限界は著しく乖離し、また遺伝子存続のための行為そのものは遺伝子存続を主眼とする次元とはまったく別に存在する。言うなればヒト科生物は物理存在としての己の個体のみの快楽を、フロイト流に言うなれば快感原則に従って生を保っているのだ。
例えば多額の金銭を稼いで豪邸に住もうとする者、ハーレムを作って酒池肉林に溺れようとする者、文芸科学によってヒト科生物の真実に迫ろうとする者、彼らはすべて例外なくそれらの行為から得られる快感を知っているが故に、その行為を遂行することで快感の再現を目指しているに他ならない。またセックスから得られる精神的、肉体的快感と、例えば数学においてある証明をなし遂げたときの快感、そして文芸科学上での発見に伴う快感は、すべて脳内におけるドーパミンの分泌と連動しており、生体はこの神経伝達物質によって快感をそれとして感知している。
ある意味我々は総じてこの脳内物質による個体にとっての快感を際限なく確保すべく存在していると理解可能であるのだが、実のところ己の快楽を犠牲として他者の幸福を願う、例えば殉教者的な義人の場合もこの原則からは逃れられない。これについてはかの有名なMark TwainはWhat is Man?の中で施しを行う博愛主義者を例に挙げてこう読者に解説している。The impulse which moved the man to succor the old woman was--FIRST--to CONTENT HIS OWN SPIRIT.すなわちここではthe manにとってはto content his own spiritが最優先課題であり、表面上における他利的行為の裏側には、まず第1に己自身に快感をもたらすことが自己目的化されているということが暴露されている。しかして我々は常に個体としての快感を最優先して生を構成しているのだが、この快楽を裁定する、すなわち何が快感であり何が快感でないかの評決権を持つのが「心」と呼ばれる脳の情報処理プロセスである。
心は言うなれば生体の内外を取りもつインターフェイス的役割を担っており、それは「外部刺激」を受け取り、次いでそれを処理して内的な「快感/不快感」へと振り分ける機能を果たしている。だがこの情報処理プロセスは「言語」すなわち記号の介在なくしては機能しない。何故なら記号がなければ我々は「外部刺激」をそれとして認知することができないばかりか、「快感」をそれとして感知することすらできないからである。旧約聖書における次の記述:Then God said, “Let there be light”; and there was light.は光という現象に先立ってlightという記号が存在していることを物語っているように、まさに「最初にコトバありき」であるのだ。
例えばドイツ語には日本語における「肩こり」に相当する語が存在しないが、その結果、ドイツ語を母語とする者は「肩こり」を経験することができない。同様に砂漠に暮らす民族にとっては「砂」はその状態によって数種類の言語によって分類されているが、日本語を母語とするものにとっては浜辺の砂はあくまで「砂」でしかなく、その差異は認知され得ない。虹は日本文化圏では7色に分類されるがモンゴル族の1部の部族には虹には赤、黄、青の3色しか与えておらず、彼らには紫が認知されないが故に、虹には紫が存在しない。日本語においても緑と青の差異は曖昧であり、「青々とした木々の葉」は、実は緑であり、仮に日本語に緑という語がなければ、緑と青の差異はなくなってしまい、虹も6色に認知されるはずである。
我々は常に、そして既にSaussureの指摘するla langueという我々に先立って存在する言語体系の中に生まれるのであって、コトバという記号に還元できないものは、端的に存在しないことと同義である。繰り返し言うならば、心を作動させるにおいて最も重要な役割を果たすのは現象を認知可能な現象として生成する基盤となる「言語」すなわち記号なのである。しかし記号には見逃すことのできない重要な特質がある。まず第1に明らかに記号の本体である記号表現と現象は同一ではあり得ないということ、次いで第2に記号と現象との間には恣意的なつながりしかないこと、そして第3に記号の意味は常に遅れてやってくる、この3点である。
我々の目の前に「ワンワンと吠える4つ足の人なつこい動物」がいたとしよう。我々はすぐさまそれを「犬」と認知するが、漢字表記であれ音声であれ、「犬、inu」という記号表現はあくまで現象の代理物であって、「犬、inu」という記号がワンワンと吠えている訳ではない。またこの「動物」は日本語では「犬」と表記されるが、英語ではdogであり、フランス語ではchienである。この言語現象についてJohn SteinbeckはCannery Rowの冒頭で次のように分析している。Its inhabitants are, as the man once said, "whores, pimps, gamblers, and sons of bitches," by which he meant Everybody. Had the man looked through another peephole he might have said, "Saints and angels and martyrs and holy men," and he would have meant the same thing."ここでは現象としてのEverybodyは唯一the same thingとして同一であるにも関わらず、心の情報処理システムはpeephole次第で結果の返し方を異としている。ここから帰結できることは、現象としてのEverybodyは決して直接的には我々にとっては「外部刺激」としては認知され得ず、必ずや記号による分節化作用によって変形され、現象そのものとは乖離したwhoresやそれとは正反対の意味作用を持つsaintsという記号を表象することでしか存在し得ず、脳の処理対象とはならないということである。
さらに重要なことは、記号の意味作用のメカニズムである。通常ある言語共同体内では記号の意味作用は一定に確保されているが、それでもその意味作用にはかなりの振幅があるのが普通である。「金閣寺」という言語表象は京都にある建造物を指し示すが、これが実際に金閣寺を目の当たりにした経験を持つ者の心象に生起させるイメージと三島由紀夫の作品に対する読書体験でしか「金閣寺」を経験したことのない者の心象に生起させるイメージとはまったく異なるであろう。「貴様」という言語表記が生起させるイメージは、その歴史的かつ語用論的な意味作用とはまったく乖離している。幼い頃に犬に噛まれた経験を持つ者にとっての「犬」という記号が持つ意味作用は推して知るべし、である。記号の意味作用は、それより後に発生する事象によって変化することは疑いないことであるが、それに止まらず我々は同一現象に対してもその時々の気分次第で心象を異にすることは経験則からしても明らかである。
同一の現象をwhoreという記号で表象するか、あるいはsaintsで表象するかによって脳内の情報処理様式は異なり、それによってドーパミンが分泌されるか否かが決定される。またその脳が蓄積している過去の情報との相関によってもこの神経伝達物質の生成は影響を受ける。このことを踏まえた上で「外部刺激」→「情報処理」→「ドーパミン分泌=快感/ノルアドレナリンの分泌=不快感、怒り」のプロセスを考えると我々はまさにEaglesの代表曲であるHotel Californiaの一節we are all just prisoners here, of our own device.であることが判明する。
ある同一現象をdeviceの1つである記号の象徴作用によって外部刺激として認知するとき、それを同じく言語としてのdeviceであるwhoreとして処理するかsaintsとして処理するかに関しては言語体系上極めて恣意的な根拠しか持たない。さらにそれぞれの記号が持つ意味作用も普遍性を持ってはおらず、気分によって多様に変化する。日常生活において我々は様々な現象に曝され、時には現象は現象でしかあり得ないにも関わらず、記号の象徴化作用によってそれを「闇」として認識することで脳というdeviceにおいてはドーパミンの分泌を自ら拒否し、不快感をもたらすノルアドレナリンを分泌させてしまい憂鬱になってしまう。
Steinbeckは書いていた。現象はwhoreでもなければsaintsでもあり得ない。しかし同時にwhoreであるかも知れないがsaintsでもあり得るのだ。現象と記号の対応関係が恣意的であるが故に、そのどちらを選び取るかは先験的に決定されたものではない。EaglesはHotel Californiaにおいてthis could be heaven or this could be hell.であると示していたが、このフレーズの後にはit is up to you.と付け加えるべきなのではないか。闇からの脱出の鍵はここにあるのかも知れない。



 




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